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5月1日 復活節第3主日 説教

「新しい道へ 復活の主とともに」

司祭 フランチェスコ 成岡 宏晃


 まず、復活節第3主日特祷にもう一度目を向けてみましょう。この特祷は、ルカによる福音書24章13-35節のエマオ途上の復活顕現物語つまり、十字架上で死なれた主が復活された出来事を信じることが出来なかった弟子たちの物語に基づいていると言われています。

 主がご復活されることを聞かされていたにもかかわらず、弟子たちは目の前に現れた主イエスを受け入れることが出来ませんでした。なぜならば、ご復活の主を前にしていながらも、主イエスが十字架上で死なれたことによって、弟子たちが主を信じる心を閉ざしてしまったためです。

 このエマオ途上の物語を踏まえた形で、ヨハネによる福音書の21章は記されました。21章は、20章までとは異なる筆者が、だいぶ後世になって後から付け加えた文章であると、多くの聖書学者が結論付けています。この21章の物語は、弟子たちが生きた時代も、後世になっても、さらに時がたった現代においても、主のご復活を信じること、また信じ続けることがいかに困難出るかということを語り継ぐために書き加えたのではないかと想像するのです。

 そうして、主のご復活を信じることが出来ない私たちが神にささげるべき祈りの言葉の一端が、本日の特祷の祈祷文の一節にある「み恵みによって私たちの信仰の目が開かれますように」と現わされているのです。信仰を表すピスティスというギリシア語は、「安定を得る」、「無条件に信頼する」という意味を含んでいます。人間が安定を得る、また無条件に信頼を寄せることのできる対象というのは、確かに存在していると断言できるものとなることが少なくないような気がします。目に見えない不確かな神よりも、目に見える物体を伴う事物に信頼を寄せることの方がよっぽど安定を得ることが出来ると、やはり思ってしまうことは否定できません。

 それゆえに、21章の記者は特別な時にではなく、日常生活の中に主がともにおられることへの信頼を改めて伝えようとしているような気がするのです。私たちの日常生活は、漁師が船を漕ぎだして魚を得るように、生きるために、仕事に従事し、また食料を獲得しながら過ぎ去っていきます。毎日、同じ生活を繰り返している人もおられるでしょう。すると、人生を積み重ねることによってその人生に少しずつ確信を得るような感覚に至ることがあるかもしれません。そのたびに、人は「絶対」という言葉を用いて、自分の足元を安定させようとします。「絶対」なんてことはないことはわかっていながら。


 ヨハネによる福音書21章にて夜通し、漁をしていて何も取れなかった弟子たちに主イエスは「何か食べるものがあるか」と尋ねましたが、弟子たちは「ありません」と答えます。この「ありません」という言葉は、もともと記されていたギリシア語では「ありません」と、敬語に翻訳するような丁寧な言葉ではなく、もっと無機質な言葉で「ないよ」といったような辛らつな言葉でした。「わたしたちが夜通し漁をして何も取れなかったんだから、当然食べるものなんかないよ。」と言わんばかりに。さらに、本日の使徒書は、あまりにも有名なサウロの回心の物語です。よくご存じのとおり、サウロもイエスの教えに対する批判的な姿勢を「絶対的」に貫いた一人でありました。その姿勢は、弟子たちを脅迫して殺そうとするほどに過激なものでした。聖書は、そのサウロが光に包まれて復活の主にであい、目が見えない状態になったと続きます。

 不漁のまま帰ってきた弟子たちの前に、イエスの弟子たちを迫害し続けてきたサウロの前に、復活の主が現われたように、自分の生き方に絶対的な自信を持ち合わせているすべての人たちの前に復活の主は現れて問いかけます。「なぜ、あなたはそんなに独りよがりな生き方をするのか」と。

 そんな弟子たちやサウロやわたしたちに次の一歩を踏み出させたのは、「船の右側に網を打ちなさい」、「起きて街へ入れ」という、復活の主の言葉でした。「揺るぎない絶対的な態度」はときに、人を傷つける武器になることがあります。絶対的に揺るぎない態度は他者を傷つける武器になりますし、寸分の間違いもない人生を歩んでいるという自負心は、万に一つ道を踏み外してしまった時には自分自身を大きく傷つける武器にもなってしまいます。 

復活の主を通して弟子たちやサウロに語られたことは、誤りのない揺るぎない絶対的な信仰を持ちなさいということではなく、たとえ間違いを犯したとしても神は再び起き上がらせてくださるということ、たとえ道を進んだ先が八方ふさがりであったとしても、神は違う道を用意してくださりその道をもう一度進むことがゆるされているという揺るぎない、悔い改めによって拓かれる和解の道筋です。


 2019年末新型コロナウイルス感染症が蔓延し始めたころの世界保健機関の対応、今回の北海道で起こった船舶の事故の対応、その他さまざまな場面で予期せぬ、世間的にあってはならない事態が起こったとき、過失のあった人たちに対して人々は再び立ち上がることを望みません。そのために再び立ち上がることが出来なくなることを事前に察知する人は、その過失をきれいに隠蔽し、何事もなかったかのように間違った道を歩み続けていこうとします。しかし、自分は間違っている道を歩んでいるとわかっていながらその道を歩み続けることほど苦しい生き方はありません。

 同じように、「今まではこのように生きてきたのにどうやらこの生き方では苦しいことばかりがあるらしい。でも、今まで生きてきたこの考え方を変えることなどそうそうできることではない」また「今まで、あらゆるものを背負ってきた。自分に与えられている試練は、自分の力で何とかしなければならないと思い込んできた。本当は、もうこれ以上荷物を背負うことが出来ないから、少し降ろさせてくださいと言いたいんだけれども、なかなか言い出すことが出来ない」という重荷を背負いながら生きるすべての人に、主は「あちらの道があるよ、もう一度立ち上がって進んでみなさい」と言葉をかけてくださいます。


 目が見えなくなってしまったサウロは、周りの人たちに手を引かれてダマスコへ向かいました。頑なさが砕かれて周りが見えなくなってしまったときには、誰かに手を引いてもらって、目的地を目指すしかありません。その新しい歩みを、勇気を持って受け入れることが、復活の主と出会った私たちに求められている信仰生活なのかもしれません。復活の主は、わたしたちにこれまでの自分を捨てて、キリストとともに歩む新しい道を示されます。その道は安定や安心からは程遠い道かもしれません。しかし、不安定な道だからこそ主がともにいてくださり、しっかりと歩むことが出来るように、わたしたちに豊かな出会いを与えてくださいます。嬉しいことも、不本意なことも、一つひとつの出会うを大切にしながら復活の主が示してくださっている道を歩み続けることが出来ますように願っています。

 
 
 

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