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「分裂」と「不和」に聴く

 【聖霊降臨後第10主日 説教】

 まず、創世記1章1節-5節をともに聞きましょう。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の表を動いていた。神は言われた『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」この創世記のみ言葉によれば、神はご自分が創造された地上に「光あれ」という言葉を顕され、混沌とした世界に秩序を与えられたとあります。聖書における秩序は、世に灯された光、救い主イエスのことであり、旧約聖書ではイザヤ書において「多くの痛みを負い、病を知り、私たちの病や痛みを追ってくださる方」が民の苦しみのただなかに遣わされるとあります。つまり、神がみ子イエスをとおして顕された新たな秩序とは、すべての被造物が互いを尊重しあいながら生きるために最も大切にされるべきことは最も小さくされている人たちの側にこそ神がともにおられるということでした。

 小さくさせられている人というは、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人に限らず、さまざまな理由で孤独を感じている人すべてに当てはまります。みんなで楽しいお話をしているんだけれども、わたしはその話の何が面白いのか全く理解できないと感じる人、世間ではやっていること何だけれども特に興味がなくて自分だけ取り残されてしまっているのではないかと感じている人、世の中の95パーセントの人が正しいと思っていることに対して、それは理解できない、納得できないと思っている人などです。

 このような人に対して「あの人は変わっているよね」とさらっと表現する人がいますが、最近は「変わっている」ではなくて「ユニークですね」という方が良いのではないかと言われることもあります。私が思うに「あなたって、他の人にはない独特な発想をしているよね」というメッセージが込められていることに変わりはないのではないかと思うんです。そして多くの場合、世間はこの「ほかの人にはない独特な発想」を歓迎するよりも非難したり聞き流したりするのではないかと考えさせられる出来事がたびたびございます。皆さまの周りでは如何でしょうか。しかし一方で、神は主イエスと人々との出会いを通して、私たちに「変わっている」、「ユニークである」ことを大切にしなさい、というメッセージを分ちあうようにと示されます。

 しかし、「変わっていること」や「ユニークさ」を大切にすることは分裂や不和を生み出すきっかけにもなることを私たちは本日の福音として聴く必要があります。

「ユニークさ」は日本語では「唯一性」と言い換えることが出来ます。さまざまな違いを持つ一人ひとりの唯一性が大切にされるということは、とても崇高で理想的な世界だと私は考えます。しかし、すべてのいのちの唯一性が大切にされる世界、つまりどのような生き方や考え方や立場の人が大切にされる世界で、私というひとりの人間が生きていこうとすることは、神が大切にしておられる自分とは異なる考え方や自分と対立する立場の人とともに生きることでもあります。そこにはすでに不和や分裂が生まれています。

 4月に執り行われた北海道教区の主教按手式で分かち合われた笹森主教のご挨拶の中に「女性が主教職を担っていることに違和感のある方がおられることも存じております。しかし、わたしはそれでもいいと思っています。その方々とともに歩んでいきたい。」という言葉がありました。この言葉はまさに、不和と分裂を生きることへの宣言であると私は感じました。笹森主教は本日の福音書に「わたしは火を投じるために、分裂をもたらすためにこの世に顕された」という主イエスの言葉を真正面から受け止め、その想いを言葉で表現されたのではないかと想像いたします。

 ふと自分を振り返ってみたとき、分裂を恐れて自分の本当の気持ちを抑え込んで無難な生き方を、あたりさわりのない生き方を選んでしまってはいないだろうか。不和を裂けて、本当は分かち合いたい気持ちがあるのに周囲の雰囲気や大多数の人の意見に押し流されて、心の奥底にしまい込んでしまってはいないだろうか。家庭、教会、職場、そのほか私たちが属している共同体において、まず私たち自身が自分の気持ちや考え方を大切にすることが出来ているだろうか。もちろん、率先して不和や分裂を起こそうとする人などいないかもしれません。しかし、わたしたち一人ひとりが異なる考え方、生き方や発想を持つ者同士であるという事実を知り、不和や分裂を経験することによって、神が創られたこの世界の複雑さの前に私たちは謙遜さを学ぶことが出来るような気がするのです。

 謙遜さを経験することのない人間は気が付いたら傲慢になってしまいます。傲慢さの行き着く先は排他的で強権的で自分さえ良ければ後のことはどうでもよいという、21世紀に生きる大多数の人間が目指そうとしている道を歩むことに他なりません。分裂するから、不和があるから対立するのではなく、分裂や不和があるからこそ、その現実と今まで以上に謙遜に向き合い、心を尽くして神の声を聞くように招かれています。言うなれば、分裂や不和は私たちのただなかにおられる主イエスが起こされた福音であると信じられるようになりたいのです。

 本当にそうであろうか。では、実際にこの世界の不和と分裂の象徴でもあるような戦争も主イエスが起こされた福音であると言えるのだろうかと、ふと思います。しかし、よくよく考えてみるとロシアのウクライナ侵攻の背景にしても77年前に広島と長崎に投下された原爆の悲劇をはじめとする戦争の歴史も、日本軍による真珠湾攻撃にしても、戦争の火種は「私たちの言うことを聞かないとこうなるんですよ」と、自分達とは違う考え方や生き方を選ぼうとする他者に対して強引に自分たちと一致させようとした結果なのではないだろうかという気がするのです。

 神は、この世界に多様な民族や地域性や価値観や生き方を、それぞれの賜物、ギフトとしてお与えになられました。この、分裂していて相容れないもの同士がともに生きていかなければならない世界であるにもかかわらず、武力や財力や社会的権力によって強引に一つの方向性へと向かわせようとすることが神のみ心に背く、愛のない生き方であるのかもしれません。

ウクライナの惨劇も、77年前の惨劇も私たちと直接関係のない物語、対岸の火事ではありません。ロシアのウクライナ侵攻を非難しながらも、わたしたちが身近なところで分裂や不和を受け入れることを恐れて、強引に一致を推し進めていることがあるとすれば、それは戦争に近い状態と言えるかもしれません。

今を生きる私たちが、すべての人間のいのちを大切にされた主イエスの想いを受け継ぎ、主とともに不和や分裂のただなかに留まることが福音宣教の第一歩なのかもしれません。さまざまな違いを持つ他者の「唯一性」を心から尊敬できる神の国の到来を待ち臨みつつ、その時が必ず訪れることを信じて、絶えることのない祈りをささげ、日々感謝のうちに過ごしてまいりたいと心から願っています。

 
 
 

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