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8月2日 礼拝メッセージ

8月2日 説教「聖餐による『自分らしさ』の回復」


司祭 フランチェスコ 成岡 宏晃

 今日は8月2日ですが、7月末から8月初頭にかけて、わたしが日本にいるということは、5年ぶりのことです。毎年、生徒の引率でタイへ出かけておりますが、今年はまだ1学期が終わってすらいません。学校だけでなく、おそらく自粛を強いられていた春先のロスを取り戻すために、例年にない巻き返しを図ろうとしている世の中と言えます。

 ただ、わたしたちはどのような状況においても決して見失ってはならない方向性があります。それは、いのちを大切にする生き方です。いのちを大切にすると言葉でいうのは簡単ですけれども、世界中すべての人が自分の命は大切なものであるということを自覚することができているかと言えば、必ずしもそうではないということを、わたしたちはある出来事を通して知ったのではないかと感じています。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが、SNS上で知り合った医師に投薬による殺人を依頼していたとされている出来事、この出来事に対して、多くの方々が「命を粗末にしてはいけない」というような色合いの意見をインターネット上へ投稿しました。しかし、一方でALSの患者さんやこの病と密接にかかわってこられた方々からは、殺人を依頼したALSの患者さんに対して、その行為が正しかったかどうかということは別にして、その気持ちに同情と共感が寄せられているそうです。みなさんは、どのようなこのできごとをうけとめておられますか。

 少しずつ体が動かなくなり、手を動かすこと、食事を食べること、話すこと、少しずつできることが少なくなり、誰かの助けなしには生きていくことができなくなる辛さ苦しさがある。それでも、生きようとすることにどのような意味があるのだろうか。もう少し突っ込んでみて、わたしたちは何のために生きているのか、このあたりのことを切り口にして、今日はキリストに連なる私たちの生の源である礼拝、特に聖餐式がわたしたちにもたらす「いのちの回復」について、共に分かち合いましょう。

 本日の聖書日課、特に旧約と福音書のテーマは回復です。わたしたちは、どのような時に回復したことを実感しているでしょうか。おなかが減ったときに食事をすれば空腹が満たされ回復を実感しますし、傷を負ったときや病に罹患したときに、手当てをして病や傷が治癒すればそれも回復といえるでしょう。

 主イエスは、旅の先々で同じように手の萎えた人をいやしたり、物乞いをしている人に声をかけて一緒に食事をしたりしましたが、主イエスと出会った人たちの多くは、空腹が満たされたということや病が治癒したということ以上に、生活の貧しさや職業や民族的な違いを持つゆえに人々から疎外されていた人たちの目には見えない人間の尊厳というか、いのちの重みのようなものが回復したのであるということが昨今ではよく語られます。医療や福祉の現場では、人間の尊厳や命の重たさのことをQoL(クオリティオブライフ)と言います。

 クオリティオブライフという概念は、「その人がその人らしく最後まで与えられたいのちを全うすること」を大きなテーマとして掲げています。つまり、主イエスとであった一人ひとりが回復したのは、傷でも空腹でもなく「自分らしさ」であったと言えます。この「自分らしさの回復」は、教会のキャッチフレーズにしてもいいかもしれません。「自分らしさの回復を目指して・大阪城南キリスト教会」、「ヴィアメディア・本当の命の在り方を探す旅に、一緒に出かけませんか」とか、どうでしょうか。

キャッチフレーズはさておき、では「自分らしさ」が回復すると何がどう変わるんでしょうか。そもそも、「自分らしさ」って何でしょうか。

 冒頭の話の関連になりますが、今から8年前にALSを発症した医師の竹田さんのという方のお話が新聞で紹介されていました。竹田さんは、ALSを発症してから病気を受け入れるまで4年かかったそうです。診断を受けた当初は、自分が無力で価値のないものに思え、体が動かなくなる恐怖や家族に負担をかけることへの申し訳なさのために生きること自体が罪のように思えて泣き続けたそうです。

 他人の発言に傷つけれられることもあり、何度も死を選ぼうと思ったそうです。ただいっぽうで「子どものために生きなければならない」と思ったり、介護をしてくれた学生の人生の一助になれたのではないだろうか、自分は人のために役に立てることがあるのではないだろうかと実感することで心が揺れ動いていたそうです。

 さらに前向きになるきっかけとなったのは、24時間ヘルパーの人にお世話をしてもらえる環境が整えられて、家族に迷惑をかけなくなったこと、視線で入力できるパソコンの導入で仕事や交友関係が広がっていったこと、医療チームや家族の支えをますます実感することができたことであったそうです。このような出会いは、きっと竹田さんに「今のあなたのままで生きていっていいんだよ」というメッセージが届けられたひと時でもあったのではないだろうかと想像します。

 竹田さんは、この記事の中で「人間は、強いときもあれば、弱いときもある。もし患者が『死なせて』と発したなら、なぜそう思うのか寄り添って耳を傾け、辛いことを解決する手段があれば全力でサポートしてほしい。」と締めくくっておられます。

 さて、わたしたちは今、主イエスのご復活を記念し思い起こす主日に教会、すなわち主イエスのみ前に集められて、み言葉を分かち合い、主の食卓を分かち合おうとしています。わたしたちは空腹を満たすためにこの場にいるのでもなく、道を歩いていて転倒して傷を負ってその傷を治すためにこの場にいるのでもありません。

 強いときがあるし、弱いときもある、そんなわたしたちのいのちは、他でもない、そのいのちの創り主である神によって受け入れられているものであるということを知るためにこの場に集められています。人里離れたところで一人祈っておられた主イエスのところに押し寄せてきた群衆が夕暮れ時までその場にとどまっていました。みんなおなかも減っただろうし、ぼちぼちお帰りいただきましょう。という雰囲気の弟子たちをしり目に、「あなたたちが食べさせてあげなさい」といっておもむろに5つのパンと2匹の魚を群衆に分け与えられました。福音書記者がこの物語を通して私たちに何を伝えたかったのか、さまざまな議論がありますが、ただひとつ、はっきりしていることは、主イエスが弟子たちとともに分かち与えたものによって、すべての人が満たされたということです。マタイの記事では、洗礼者ヨハネの訃報を知った直後の出来事として描かれています。

 次は、自分自身もそうなるのかもしれない。分かち合う生き方、互いを大切にしあう生き方は結局、権力を持っている人たちによってないがしろにされてしまうのかもしれない。だからこそ、ささいなことかもしれないけれども、そこに与え得られているいのちをみんなで分かち合って贅沢でなくてもいいから、たとえ不自由で生きることが苦しくなるぐらい辛い状況であったとしても、生きている限り、その小さなかけがえのない命を支え合いながら、温め合いながら一緒に背負っていきましょう。と主イエスは群衆に語られました。

 自分一人だけでは心もとないようであれば、助けを求めていいんです。その助けてくれる何かしらの力があってのわたしたち一人ひとりのいのちであることを、わたしたちは生まれたての赤ちゃんや幼子から学んでいるはずです。

 このメッセージは、毎主日の礼拝の中でわたしたちに向けられているメッセージでもあります。世界中に与えられている命が、それぞれの場でそれぞれに「自分らしく」輝く日々が守られますように心から願い、信じてまた新しい一歩を踏み出してまいりましょう。

救主降生2020年 

聖霊降臨後第9主日


 
 
 

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