Happy Easter !!
- 大阪城南キリスト教会
- 2022年5月1日
- 読了時間: 6分

みなさま、イースターおめでとうございます。また、今日は洗礼式のひと時も与えられました。大きな決心をされたTさん、ご家族の皆さま、そして今日父母のお二人、教会の皆さま、そして神さまに感謝いたします。洗礼というのは、新しい生き方へと変えられていく、きっかけとなる神さまとの約束の儀式です。ここで、今日約束されることはたった一つ、「あなたは神さまに大切にされている存在なのですよ」ということ。そして、その神さまの愛にTさんがこれからの人生の中で「これからさき、嬉しい時も、辛いときも、順風の時も逆風の時も、わたしは神さまに大切にされているかけがえのない存在であることを忘れないように心がけます」と応答し続けていくという約束を交わすわけです。これが、たったひとつの洗礼の約束です。
この約束のゆえに神さまから与えられているわたしの命は、どのような時であっても大切にされるべきものであり、能力や社会的な立場の違いによって優劣がつけられるべきものではないはずです。もちろん、強者が弱者を一方的に痛めつけるようなことなど論外です。
洗礼を受けるというのは、神の愛に応えられるようになる喜びが増えるようになると思っていたけれど、洗礼を受けたらむしろいつまでたっても、神さまの想いに応えることのできない自分自身のふがいなさや、自分の欲求を満たすために、すぐに力で他者を抑え込もうとする人間の弱さと神さまとの約束とのはざまで揺れ動くことばかりで、余計しんどくなるという人も少なくありません。
今から、洗礼を受けようとする方に向かってお話することではないかもしれません。でも、わたしたちよりもはるかに深いイエスへの信頼を心に抱いていた弟子たちでさえ、イエスが十字架にかけられ、死に渡された直後には、主イエスを通して実感した神の愛と、その愛に応えることのできない自分たちのふがいなさのはざまで葛藤し、悶々としていました。
そして悲しみに暮れていた何人かの女性たちも同様でした。3日目の朝早く、いてもたってもいられなくなって、主イエスの亡骸に香油を塗るために墓穴へ、女性たちは足を運びました。しかし、そこには何もありませんでした。そこにあるはずの大切な人の亡骸が、取り去られていたのです。
みなさんは、「あるはずのものが見当たらなくなった時に、まっさきに何を思い浮かべますか。」たいていの場合、一言目は「おかしいな、ここにあったはずなのに」から始まり、次の二言目が何通りかに分かれるでしょう。「気が付かないうちに違うところにおいてしまったのかな」、「誰かが持って行ってしまったのでなないだろうか」、「そもそも、そんなものなかったのか。夢を見ていたのかもしれない」、「どこに行ったかわからないけど、まぁそのうち見つかるでしょう」などなど。皆さんは何を思われるでしょうか。
今日のルカによる福音書の話の場合は、墓の蓋が開けられていたとあります。このお墓というのは、直径2メートルぐらいの大きな石の蓋を転がして開け閉めするものでした。その大きな石が取り去られていたので明らかに誰かが何かをしたことが予想されます。そこに表れた天使たちの言葉は「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか」という言葉でした。福音書を記したとされているルカは、このイエスの「生」と「死」を目の当たりにした弟子たちの物語をとおしてキリストの福音に従って生きる、つまり復活の主がともにおられることを信じることによって初めて、この世の闇の中に神が示される希望を見いだすことが出来るということを後世に伝えたかったのではないかと考えられています。
ルカによる福音書と使徒言行録は同一の人物によって記されたと考えられていますが、その2つの書物において「○○をすれば、あなたは生きるようになる」と記されている代表的な2つの箇所をご紹介すると、一つはルカによる福音書10章の28節です。善きサマリア人のたとえ話で律法の専門家がイエスを試そうとして「何をすれば永遠の命を受け継ぐことが出来ますか」と問いかけ、イエスは「主なる神を愛し、隣人を愛するようになる」という旧約聖書の言葉を行うことであなたは生きるようになると続く場面です。この時の具体的な行いとは、追いはぎに襲われて半殺しの目に遭っている人に対して、深い共感を示すということでした。また、使徒言行録の11章18節には、いのちに至るのは悔い改めによってである、つまり命に至る道は最も日小さく貧しくさせられている人の視点からこの世の中を見直すということである記されています。
この2つの視点は2000年の時を超えてもなお、色あせることなくキリストに連なるすべての人に命を与え続けています。その命の源とは、キリストに連なるすべての人は最も苦しいとき、もっとも暗いそこに臥せっている時に主がともにいてくださることを信じ、神に祈りをささげることが出来るという揺るぎない事実です。
どれだけ、大きな失敗を犯しても、取り返しのつかないような迷惑をかけることがあったとしても、私たちは「神がわたしたちを大切にしている」、「わたしたちはその神の愛に応えるために、神と人とに仕えて生きる」という約束の中で生かされていることを祈りのうちに思い起こし、いのちの尊さに気づくことが出来ます。私事で大変恐縮ですが、わたしは左手の人差し指の半分を事故で失いましたが、その代わりにそんな私のこれからの人生のことをいっしょに考えてくれる大切な仲間を与えてくださいました。その時は、まだイエスさまと出会ってはいませんでしたが、わたし自身も誰かの隣人となることが出来たらいいなと願い、祈ることの大切さを実感しイエスさまを信じて生きていこうと思える大きなきっかけでした。
祈るという行為は、些細なことですし、お腹がいっぱいになるわけでもないですし、たくさん祈ったからと言ってお給料が増えるわけでもありません。でも、少し極端な話かもしれませんがもし仮に私たちの生活からあらゆるものがなくなったとしても、祈りが失われることはありません。サマリア人が深い共感でもって追いはぎに襲われた人を助けたように、他者を想い、世界を想い、祈りをささげることによって世界に何かしらの影響を与えることが出来ると信じることが主のご復活を信じる者の最も大きな喜びであると私は信じています。
さいごに、復活を信じるということはこの地上での生涯を終えた方の魂が神さまのみもとで安らかであり、今日のような礼拝の時をはじめ、あらゆる場面で再び相まみえることが出来ると信じることです。この1年の間に3名の方を神さまのみもとにお送りいたしました。寂しい気持ちもありますが、魂は神さまのもとで安らかであり、いま天国から私たちと一緒にこの聖餐式の場にともにおられること、そしてわたしたちもいずれは同じように神さまのみもとへ帰っていくことを信じてこの地上での生涯を送っ参りましょう。主のご復活おめでとうございます。
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