イエスの声を聴く羊 復活節第4主日説教
- 大阪城南キリスト教会
- 2022年5月8日
- 読了時間: 4分
4月17日に復活日・イースターを迎えてからペンテコステまでの50日間わたしたちは主のご復活の意味を深く味わうための期節「復活節」を過ごしております。主のご復活というのは、イエスを救い主として信じる者にとってもっとも重要な出来事と言われていながらも、もっとも不確かで最も説明しにくい出来事の一つとして考えられている事柄の一つでもあります。それを、無理やり合点がいくように論理的に説明するように求められたとき、わたしたちはどのように説明をするでしょうか。
そんな説明など、おそらくありませんが、キリストに連なる者として、「復活って何が起こったのですか」と問われたときに私たちは自分の感じたこととして自分なりに言葉にすることが大切なのではないかと思うのです。聖書を読み、場面を想像し、同じような出来事が私たちの身の周りに起こっていれば、それがわたしたちにとっての主のご復活の出来事であると言えます。
主のご復活において起こって出来事は、少なくとも2つあります。ひとつは十字架上で死に渡され、墓に葬られたイエスが神によって再び起き上がらせられたということ、そしてもう一つはイエスの十字架刑に結果的に加担する形になってしまったすべての人の罪が赦され、その人たちとともに歩み続けられたということです。
この出来事について、本日の使徒言行録にはイエスの教えを理解することが出来なかったエルサレムの指導者たちによって、死に当たる理由を何一つ持たないイエスが死に追いやられたにもかかわらず、神はイエスを死の中から起こされ、多くの人たちの前にその姿を現されたと記されています。つまり、主イエスの復活とは、死の中に命が生まれたこと、罪が赦されたという暗闇の中に光が灯された出来事を言い表していることになります。しかし、ここで最も重要なポイントは人間の「常識」と呼ばれるものや「社会通念」、「当たり前」をはるかに超えた出来事が起こっているということです。
死の中に命を見いだすことは、限りある命を持つ私たち被造物にとってもっとも大きな問として抱き続けることでもあるかもしれません。また、罪のゆるしに関しては世の中的には、まったく理解されない考え方の一つといってもいいかもしれません。それも、心の弱さや裏切りによって大切な人の命を死に至らしめたというような、人生において決して拭い去ることのできない大きな過ちがゆるされるということは、そうそう実感できることではありません。ですが、主の復活を信じようとする教会共同体に連なる私たちは、死の中に命が、暗闇の中に光が灯され、神の名によって罪のゆるしが示されるという人間の「常識」や「当たり前」をはるかに超えた次元の出来事が目の前で起こることに信頼を寄せるようにと招かれているのです。
本日のヨハネによる福音書、神殿奉献記念祭と呼ばれる一大イベントが開催されている時のことでした。神殿奉献記念祭とは、その昔セレウコス朝シリアによってユダヤ教が禁止され、神殿に異教の祭壇が建てられていた時代が続いていた折にユダヤの民がこれを奪還してユダヤの民の祭儀を再建させたという紀元前164年の出来事を記念するお祭りでした。
ユダヤの民は自分たちが先祖代々受け継いできた、この神殿奉献記念祭に心を寄せ、改めてイエスに罪を見いだそうとしていました。なぜなら、自分たちが信じる神以外の神への信頼を寄せることは非常に困難であったからです。イエスは、自分を信じようとしないユダヤ人たちに向かって「わたしの声を聞き分ける羊でなければわたしを信じることはできない」と言葉を返されました。
わたしたちは主イエスの声を聞くことが出来ているでしょうか。そもそも、声を聞くということは、とても難しいことであるようなきがします。羊というのはとてもおとなしく忍耐強い動物であるがゆえに、宗教的な象徴としてよく用いられるようです。とりわけ、聖書の世界ではその羊を束ねる羊飼いというのは非常に大きな重責を担っている王のシンボルとして用いられ、また主イエスは本日の福音書の直前で「私は良い羊飼い」と自称しておられます。
羊は、おとなしいながらも忍耐強く羊飼いの声に耳を向けることいよって、集団を維持し、共同体として生き続けていきます。もし、羊が羊飼いの声に耳をすませることなく四方八方に離散してしまったら共同体として歩み続けることはできません。声を聞くために最も大切なことは、冒頭に申し上げた「常識」や「当たり前」を取り払うことです。
「常識」や「当たり前」の押しつけはときに、人を傷つける武器となりますがそれらが取り払われたとき、私たちはお互いの存在を大切にすることができます。このお互いの存在を大切にすることこそが主イエスの声に他なりません。弱さを抱えながらも、主の声に耳を傾けながら希望を信じて歩み続ける羊としてこれからも主のご復活を信じ、ともに祈り続けてまいりましょう。
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