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 「戦後76年を振り返る」

8月15日について、日本の終戦記念日であると多くの歴史的な文書などで記されていますが、「終戦」というのは歴史的事実とは異なっていると指摘する方も少なくはありません。すなわち、8月15日は日本という国にとっては終戦ではなく、無条件降伏を受諾した敗戦の日であるということを深く受け止める必要があるということ。

 実際に戦争の悲惨さを経験された方々の前で、戦争が何たるかを語ることは決して許されることではないかもしれません。ただ、今日ともに分かち合いたいことは、76年前に戦争が終わったので今は平和であるとは言い切れないということと、平和とは私たちが生きているこの世界で私たちが主体的に創り上げていくものであるということです。戦後76年と言われていますが、時として、私たちはいまなお戦禍の中に身を置いていると言わざるを得ないことがあります。そして、この戦禍に身を置いているのではないかということが新型コロナウイルスの混乱によってますます明らかになったと言えます。戦禍とは一体何を指すのでしょうか。

 学校の授業で高校3年生にこんな質問をしました。「『ねぇねえ、戦争って何?』と5歳の子どもに尋ねられたらあなたは何と答えますか。」高校3年生は、それぞれの想像力を働かせて、言葉を紡ぎました。「国の都合で個人の命が失われる大人のけんか」とか、「勝った方が何かを得て、負けた方が何かを失う」、「勝った方も負けた方も、いままで積み重ねて来たものが一瞬にして失われること」、「武器をもって相手を攻撃する殺し合い」、「自分が欲しいと思ったものを手に入れるために相手を攻撃すること」など、ほかにもさまざまな情景が描かれました。

 少し5歳には難しいかなと思うような言葉もありましたが、高校3年生が戦争という出来事をどのようにとらえているか、そしてその歴史とどのように向き合おうとしているのかを知るために非常に貴重な分かち合いでした。また、戦争が何たるかを知ることは、聖書のみ言葉を聴く者にとって非常に重要な問いかけであるような気がします。

 聖書を読むということは、聖書の物語に描かれている人々や、この聖書のみ言葉を受け継いでこられた方々の声に耳をすませるということです。聖書のみ言葉に耳をすませる行為は、幾万人の方々の祈りに耳を傾けることでもあります。聖書のみ言葉により頼んでささげられた祈りには、感謝、賛美、嘆き、懺悔などさまざまな思いが込められて祈りがささげられていますが、とりわけ詩編においては、その70パーセント以上が嘆きの祈りであるということはとてもよく知られています。

 嘆きの祈りでもっともよく知られている祈りの言葉は、詩編第22編「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのですか どうして遠く離れて助けようとはせず、わたしの叫びを聞こうとされないのですか」という祈りです。ご承知の通り、この祈りは、十字架上にあげられた主イエスが神にささげられた祈りの言葉です。痛みや恐れを抱いている人間の心からの叫びを主イエスは神に届けました。この嘆きの祈りこそが、私たちの信仰の原点であり、復活に至る礎であることを思い返したいのです。この叫びは、一部の権力者や有識者たちによって、自分らしさを失い、いのちが尊ばれることが叶わなくなってしまった人たちの心の叫びでもあります。

戦争というのは、日常が奪われることや、当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなっていくことであるとよく言われますが、最も恐ろしいことは、個が失われていくことです。命が大切であるとわかっていても、戦地に赴くことが決まった瞬間、万歳といって誇らしげに自分の愛する家族を戦地へと送り出さなければならない。敗戦が濃厚であるとわかっていても、玉砕覚悟で人間の体そのものを兵器にして敵機に突撃しなければならない。物資が少ない、生活が思い通りにいかないという状況下であっても、その日その日を何とか生き抜いて明日への希望を信じ続けて生きていったにもかかわらず、原子爆弾の爆発によってほんの数秒の間に8万人もの命が失われてしまう。何が、人間をこのようにさせてしまうのでしょうか。

 原爆が落とされた背景には、敗色濃厚であったにもかかわらず無条件克服を一向に受け入れることをしなかった日本軍のかたくなさがあったともいわれています。ここまで来て、敗色濃厚だなんてどうやって知らせたらいいのか。少し、飛躍しているかもしれませんがここまで準備を進めてきたんだからいまさら中止なんてそんなこと言えるわけがないだろといって、コロナ禍で大規模なイベントを強行して実施することも、ある種のかたくなさのようなものが背景にあるのではないかと思ってしまいます。この頑なさや傲慢さこそが人間を神から遠ざけ、個を失わせてしまうものです。

 だれだって、いつの時代だって想定外のことは起こります。そもそも、すべてが人間の計画通り進むと思うところに神の被造物に過ぎない私たち人間の傲慢さがあるのかもしれません。人の子の肉を食べ、その血を飲むということは、主の十字架とご復活を記念する感謝の祭りをささげ、人間の傲慢さと頑なさのために、尊い方の命が犠牲になり、その犠牲のゆえに傲慢で頑なな人間が再び生きるチャンスが与えられた事実に立ち帰りなさいということです。そして、この事実を誠実に受け止めることが、神が心のうちにおられる何よりの証なのです。

 聖餐式では、み子の体であるパンと血であるブドウ酒とを私たちは分かち合い、一部の人間の傲慢さと頑なさによって、小さくされた人々とともに生き、神のみ心を真っ直ぐ示し続けられた主イエスの尊い命が犠牲になったことを思い起こします。そして、後悔の念に打ちひしがれていた弟子たちや人々の前に、もう一度、いっしょに立ち上がろうと、希望を示してくださった復活の主が今もともにおられることを確かなものといたします。復活の主が示してくださった希望とは、かたくなさや傲慢さから解放されることによって、すべてのいのちは互いを大切にしあうことが出来るということです。

76年たって、私たちの生き方はどうでしょうか。戦争の犠牲になられた方々の苦しみや悲しみに思いを寄せて、かたくなさや傲慢さから解放されて、与えられたいのちを大切にすることができているでしょうか。自分とは違う価値観や生き方を理解できないまでも、受け止めようとしているでしょうか。自分とは異なるルーツを持つ方とともに生きることを心から願っているでしょうか。

 もし、傲慢で頑なな自分自身がいることに気づいたならば、それは復活に至るチャンスなのかもしれません。自分中心の視点から神の視点に物事の見方を変えてみてその頑なさのゆえに傷ついている人たちの苦しみに思いを巡らせると、私たちが平和を目指すために歩むべき道が少しずつ明らかになっていくと信じています。

 いま、大雨による災害も起こっています。苦しみと悩みの絶えない私たちの生きる世界で、一人ひとりがかたくなさを捨てて、もっとも小さくさせられている方とともに生きることが出来ますようにと願うばかりです。

 
 
 

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