諸聖徒日・諸魂日に寄せて
- 大阪城南キリスト教会
- 2020年11月3日
- 読了時間: 5分
本当にあわただしく始まった2020年も気が付けば11月1日となりました。世界的に再び人数が増えつつある新型コロナウイルスの感染者数や、ウイルスの影響で逝去された方の動向に私たちは気を取られすぎて、身近にいる大切な人への心配りや気遣いがおろそかになってしまっているようなことも思わずにはいられません。そのような最中に、教会にともに集まり逝去された大切な方々のことを心に留めて、祈るひと時が与えられているということはただ感謝しかありません。

どこで、誰が新型のウイルスに感染しているかわからない。どこで誰から誰に感染するかわからない。だったら、出来るだけ人との接触は避けるべきである。ましてや、病を抱えている方との接触となればなおさらであるし、社会的、経済的に貧しい立場に置かれている人たちをどうするかということまで考えている余裕ないよ。まず自分がきちんと生活を立て直していけるようにしないとにっちもさっちもいかないでしょ。これが現実であり、これが人間の本音なのかもしれません。しかし、これが悪いというわけではないような気もするのです。
そんな現状を打開していくためにオンラインをはじめとする距離を置きながらも目に見える形でつながる方法が生活の中に定着してまいりました。しかし、このオンラインという手段も経済的な余裕があったればこその通信手段です。お手紙や電話などでの連絡が精いっぱいの関係づくりとなっていた方も少なくないような気がします。「もっと、時間にゆとりがあればゆっくりと電話や手紙を書くこともできるだろうに、できただろうに」、「もっと経済的な余裕があれば、オンラインなどでもっと充実したコミュニケーションがとれたかもしれないのに」
そう考えると、わたしたちが大切な人と丁寧に関わり続けていくということや、ともに生きていきたいと願うことは、わがままでぜいたくなことなのかもしれないと思うようになりました。あの人どうしてるかな、元気かな、久しぶりに電話やメール連絡してみようかなと思いつつもなかなか行動に移すことが難しい。とても、もどかしい想いにさいなまれます。そうこうしているうちに、もう二度と顔を合わせることなく神さまのところへ帰っていってしまった方もおられます。
でも、そんなことを思いめぐらせている時に、ふと思ったのです。「私にとって、私たちにとって日々の礼拝ほど、わがままが認められて、贅沢で貴重な時間はないのかもしれない」と。私たちは逝去された方々の魂の平安を祈るために集められました。「神さまのみもとで安らかに」と願う一方で、「あぁ寂しいな」、「もう少し、一緒にいられたらよかったな」、「もう一度、会いたかったな」、「一緒にいてくれてありがとう」といったような心の中に置き去りにされていたかもしれない、逝去された方への想いを紡ぎ、祈りをささげるひと時でもあります。また、このような祈りをささげる中で、私たちが逝去された方々との出会いの中でいただいたものを振り返るひと時でもあります。言い方はよくないかもしれませんけれども仕事を一時中断してただひたすら祈りに心を向けることが出来る、とてもぜいたくでわがままな時間です。
さらに、私たちがささげている聖餐式という礼拝は加えて贅沢な時間です。なぜなら、聖餐式とは神が私たち人間のことをどれほどに大切にしてくださっておられるのかということを改めて思い起こすひと時だからです。聖餐式とは、共に食卓を囲むことを思い起こす礼拝です。昨今は、家族や友達と食卓を囲んで、話をしていろいろな心の想いを分かち合いながら過ごすことも少なくなってきているようです。ここにも、コロナの影響が見られます。聖餐式では、この聖卓を中心にこの場に集められた一人ひとりの心の想いを神さまのみ前にさらけ出して、祈りの中で分かち合うことを大切にしています。
私たちのいのちは、私たちを創られた人間の力を大きく超えた力を持っておられる神が、その立場を捨てて人間の姿になられ、死なれるという、かくも尊い犠牲の上にあるものである。それほどに私たちのいのちは尊いものである。数々の奇跡の積み重ね、今まで私たちを支えてくださった家族や友人、大切な方々が「あなたのために」といって自分の損得など顧みることなく、私たちのことを励まし支えてくれたからこそ、今の私たちがあるということを、この聖餐式を通して私たちは実感するのです。
新型コロナウイルスは、痛みを抱えている方々との交わりのひと時を奪い去りましたし、そのために大切な人とのかけがえのない時間を奪われたという方もきっと私たちの間に、私たちに身近に少なからずいらっしゃることだと想像します。

しかし、私たちが逝去された方と出会い、たくさん与えられた思い出や目に見えないつながりは永遠に失われることがありません。夢枕に立つこともあるでしょうし、日ごろの生活の中でふっと「その人の言葉を思い出すこともあるでしょう。この世でのご生涯を終えて、肉体を失ってもなお、共にいてさまざまな出会いを通して私たちに「互いの命を大切にしあい、地上のすべての被造物とともに生きなさい」というメッセージを語り続けてくださる主イエスのように、大阪城南キリスト教会に連なるお一人おひとりが、これからも私たちとともにいてくださり、いつでも励まし続けてくださると私は信じています。
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