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イエスに結ばれてひとつになる

 復活節第7(昇天後)主日 説教 

 天に帰られた主イエスが、地上にあるすべての人に遺された言葉は、「主を通して、父を知ること」、「主に助けを求めること」、そして「主の愛のうちに留まり、主にあってひとつとなる」というものでした。聖霊降臨日を迎えるにあたり、私たちの教会は主にあって一つであることが教会の本来的な姿であるということを思い返す1週間にすることが出来たらと願うのです。

 主にあって一つとなっている共同体とは、どのような共同体の姿をわたしたちは思い描くことが出来るでしょうか。教会に所属している人たちの多くが、毎週熱心に礼拝に出席している教会、聖書の学びやさまざまな集会が活発に行われている教会、美味しい食事を提供することが出来る教会、それとも小さな子どもから80代、90代と幅広い年齢層の方がたくさんおられる教会でしょうか。

 もちろん、すべての教会には、それぞれに素敵な一面があると思います。ですが、どのような教会であっても、けっして忘れてはいけないことがひとつあるのではないかと最近よく思うのです。それは、教会共同体というのは「神さまに祈りをささげる人たちの集まりであり、主イエスへの信頼を共通の拠り所をしている」ということです。この、あまりにも当たり前すぎて「いまさら何を言っているんだ」と思われがちな事柄ですが、わたしたちは日ごろこの事実をどれほど意識することが出来ているでしょうか。

 教会には人が集い、祈りをささげるだけではなく、礼拝後には食事を共にしたり、お互いの近況を分かち合ったり、信仰を分かち合ったり、場合によっては世の中で起こっている出来事についてお互いの考え方を分かち合う時間を過ごします。そしてともに過ごす時間が長くなれば長くなるほど、お互いのことを知り、一人の人と人との関係が創り上げられていきます。

 しかし、家族間でもそうですが人というのは不思議なものでお互いのことを知れば知るほど「えっ、あなたにそんな一面があったの?」と驚くような他者の人生に触れることがあります。時には、今まで同じような価値観や生き方をしていた人が自分とは全く違う考え方や、真反対の価値観を持っていることに気づかされるようなことも少なくありません。

 また、ここ数年オンラインやAIに頼った世の中の仕組みが急激に進み始めてきたことによって世代間ギャップ、いわゆるジェネレーションギャップにも拍車がかかってきているような気もいたします。また最近は、言葉かけひとつをとっても、「マイクロアグレッション」という言葉が表すように「何気ない一言がある特定の人たちに対する偏見や差別を想起させるという概念もあるようです。 例えば、スポーツの試合を見ている時に「やっぱりアフリカ系の人は身体能力が高いなぁ」とか、「何ですぐ泣くの。男らしくないな」とか、そういったような言葉だそうです。

 何を申し上げたいかというと、言葉一つとっても人によってとらえ方が違うということに心配りをしながら人との関係を築き上げていくといったように、状況が大変複雑かつ多様化しているということです。ですが、教会はいつの時代も社会の中で小さくさせられてきた方々とともに歩んでまいりましたので、何か新しいことを始めるということではなく、これまで通り、むしろこれまで以上に主イエスが真ん中におられる共同体の形成に努めていくということでこのような時代と向き合うことが出来るように感じます。

 主イエスが真ん中におられる共同体とは、他でもない主イエスへの信頼によって結び合わされる共同体です。それ以外の結びつきは、たまたま与えられているものにすぎないということを認識することが大切なのかもしれません。言い換えると、教会に集うわたしたちの唯一にしてもっとも尊い、掛け替えのない共通点であり、さまざまな違いを持つ私たちを結び合わせる唯一の事柄は主イエスへの信頼以外にはあり得ないということです。それ以外の事柄は何一つ私たちを本質的なところで結び合わせには至らないような気がするのです。少しぐらい気の合う友達がたまたまいることや食事の趣味が合う人と出会うこと、世の中が抱えている課題について共通の見解を持っている人と出会うことも実際にあります。

 しかし、それらは教会に集う私たちを一致させる動機にはならないのです。それほどに、人間とは複雑で移ろいやすい存在であるからです。しかし、そんな複雑で心変わりの多い私たち人間が、どんな時でもあのかたが心の中心におられる、苦しいときにはその想いを受け止めてくださるあの方がおられる、わたしたちのいのちはあの方によってこの地上に与えられた大切なものである。私たちをつなぐのは、この主イエスへの信頼と神への感謝以外にはあり得ないのです。

 であるからこそ、お互いのことを受け入れることが難しいと感じた時も、もう顔も見たくないと思うような想いに至っても、主日礼拝に集えば「主の平和がありますように」と心を込めて平和のあいさつを交わすようにと招かれているのです。

 私とあなたは相容れない関係かもしれない。私とあなたは違う者同士かもしれない。だからわたしはあなたに賛同することが出来ないかもしれない、あなたもわたしのことを理解しようとは思っていないかもしれない。でも、私もあなたも、主がともにおられて、神に与えられたこの命を感謝をもって全うする生き方へ導かれていることを信じて、「主の平和があなたとともに」と主がともにおられることを切に願い求めることが私たち教会共同体に求められているもっとも大切な営みであると言えます。

 わたしとあなたは相容れないかもしれない。でも、主があなたたとともにおられるようにという祈りが神に届けられたとき、私たち教会共同体は主によって結ばれる真のエクレーシアとなりキリストの枝として、神の祝福を心から感じることが出来るようになると私は信じています。

 来主日は聖霊降臨日です。天に昇られた主イエスが、弟子たちに聖霊を下し使徒として世界中に福音を宣べ伝えるようにと宣言された日です。あまたの信仰の諸先輩方が命を懸けて、人生をかけて陸を駆け巡り、海を越えて、言葉や文化の壁を越えて遠いアジアの最果てまで福音が宣べ伝えられたことに改めて感謝し、今私たちの教会に与えられている使命を改めて想い起し、日々の生活の中で主イエスの福音を証しすることのできる喜びに満たされる聖霊降臨日となりますように、この1週間心を神に向けて歩み進めてまいりましょう。

 
 
 

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